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済生春秋

第53回 傘の面影

 梅雨の季節である。雨傘が手放せない。
 60年くらい前までは、まだ竹と油紙を用いた和傘を使っていた。開いた時に生じるバリバリという音が、耳に心地良かった。子どもには少し重かったが、雨の中では似合って、使うのは、嫌でなかった。油紙に弾ける水滴の動きは、面白かった。

 いつの間にか金属を骨に用いたこうもり傘に代わった。そのうち全面的に安価なビニール傘になってしまった。
 雨傘を置き忘れた経験のない人は、いないだろう。週刊誌よりも安くなったから、ますます置き忘れがちになる。

 イギリス紳士は、傘をいつも手放さないと聞いたことがある。私の見聞では、それは疑わしいと思う。確かにイギリスでは雨が多いから、傘は頻繁に必要になる。ロンドンには高級な貫禄のある傘を売っていた。でもイギリス人は、雨に濡れることに神経質でないから、少々の雨では傘をささない。
 イギリスに滞在時、私は、ブランドの傘を買って使っていた。日本で使う物よりずっと大きく、濡れることがない。腕に重さが伝わってきた。
 日本に持ち帰った一月後、ある商店の店頭の傘入れに差し込んでいたら、盗まれてしまった。 

 傘は、歌謡曲の常連である。傘がないわけじゃないけれど...と「氷雨」、差し出した傘も受けとらずに...と「遣(や)らずの雨」、という具合だ。しかし、安いビニール傘が主流になった現在では、このようなセンチメンタルな気分にはなれない。次第に歌謡曲の世界から姿を消していくのではないか。

 最近は紫外線を避けるために日傘をさすことが推奨される。西洋の貴婦人が競馬場に行くとき、日傘をさしている姿をテレビのニュースで見ると、王朝風景だ。

 クロード・モネの「日傘をさす女性」という名画をパリのオルセー美術館で見たことがある。同じ画題での連作がある。いずれも印象派の代表作で色彩がすばらしい。顔の表情を描いている作品から描いていない作品に変化する。初めの作品は、妻との幸せな時代に描かれ、後の作品は、妻を亡くした後の失意の時代に描かれた。この解説を読んで絵を見ると、納得する。
 私は、後の方の作品に惹(ひ)かれる。モネが自分の心に残る過去の情景を描いている。モネの妻への哀切の気持ちが画面全体から伝わってくる。
 日傘をさした女性は、遠い世界の女神のように見える。

炭谷 茂

すみたに・しげる

1946年富山県高岡市生まれ。69年東京大学法学部卒業、厚生省に入る。自治省、総務庁、在英日本大使館、厚生省社会・援護局長などを経て2003年環境事務次官に就任。08年5月から済生会理事長。現在、日本障害者リハビリテーション協会会長、富山国際大学客員教授なども務めている。著書に「環境福祉学の理論と実践」(編著)「社会福祉の原理と課題」など多数。

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